学研【科学の教室】中川浩が大ヒットへと導いた苦労、障壁を乗り越えた物語

アンビリバボー

こんにちは、KEIGOです。

 

4月25日に放送される

『奇跡体験アンビリバボー』で、

学研が出版している『科学の教室』の創刊から大ヒットまでの物語を紹介しています。

 

発売当時は『科学』の雑誌は売れないと言われていて、

何度も廃刊寸前のところまで行きますが、

1人の男が色々なアイデアを出し大ヒットへと導いていくその物語をご紹介します。

 

学研【科学の教室】中川浩が大ヒットへと導いた苦労、障壁を乗り越えた物語

 

学研が『科学』を初めて発刊

 

学研から初めて科学雑誌が誕生したのは1957年の1月。

 

当時アメリカの占領軍から文部省に対して、

小学校教員にはリカが重要項目だという内容の『理科教育振興法』が指示されていました。

 

この年の年初に学研の創始者で社長だった古川氏が

資源の少ない日本は、科学技術で世界に羽ばたく必要がある。

未来を担う子どもたちにとって、

家庭教育においても科学雑誌が求められる時代となった。

 

と話し、新しい科学雑誌の創刊を宣言しました。

 

日本は当時戦争敗戦後の混乱期で、

これから発展していくために教育立国を掲げていましたが、

古岡社長は科学立国なるものを目指して『科学』を日本の子供たちへと伝えていくのでした。

 

そこで当時、

原田三夫氏が編集していた『子供の科学』が出版されていて、

科学が大好きなマニアの少年たちに愛されていました。

 

しかし、学研は科学のマニアの少年たちに向けてではなく、

親しみやすい科学の雑誌を目指して普通のごく一般の子供を対象にしました。

 

そのため、『読みやすい』を目指して漫画家などを起用しました。

 

また、雑誌を売るために編集担当者たち、営業担当者などスタッフ全員で発売日に書店に足を運び、

・きちんと平積みされているか?

・『子供の科学』に正面から対抗できるか?

・売れ行きはどうか?

 

を入念にチェックしていました。

 

当時は交通機関も今より発展していなかったし、

全国各地を回るのはとても大変だったでしょう。

 

障壁① 売れない

 

しかし、当時の学研には悩ましいことがたくさんありました。

 

まず市販ルートが貧弱で、

また宣伝や科学雑誌を売るノウハウなどもあまりなかったことなどから、

全く売れていきませんでした。

 

その結果、

『小学生のたのしい科学』は2号出したところで廃刊となってしまいます。

 

4月からは『小学生のたのしい科学』を上級・中級と分けて再び発刊するのでした。

 

小学3年生4年生に向けて作られた中級版と、

小学5年生6年生に向けて作られた上級版だったのですが、

学年別に分かれて作られる科学学習しを手掛けるのなんて初めてなので、

すべてが手探り状態でした。

 

また、学年別に分けたことで突然売れ行きが良くなるわけでもなく相変わらず低迷。

 

社長を含めた編集会議では毎回のように廃刊という言葉が出るくらい苦しかったのでしょう。

 

さらに迷走は続き、

社長が突然、学研という社名で出すよりほかの会社名で出版するほうがいいのではないか?

と言い出しました。

 

そこで子会社だった『立風書房』という会社名で出版することになりました。

 

10月号から『科学の教室』が誕生しました。

 

この『科学の教室』から方針転換することになり、

当初は科学の正しい知識を与えていこうという基に作られていましたが、

教科書の補助的な文部省の学習指導要領に沿ったものへと変えられました。

 

障壁② 社名や編集方針を変えても売れない⇒休刊

 

社名を変えて編集の方針を転換したところで根本的な解決は何も見いだせない。

 

スタッフ全員で取り扱っている書店をくまなく回り、

出来るだけ目立つ場所においてもらうようにお願いしたりと努力するものの、

結果は変わらず毎月のようにたくさん返本されてきます。

 

活路を見出すことが出来ずにここで一時休刊となってしまいました。

 

『科学』雑誌が創刊したときから編集に携わってきた根本氏が一時休刊となったことで、

出社拒否を起こします。

 

科学雑誌でなんとかもう少し頑張れないか?

 

と抵抗した結果、出社拒否につながりました。

 

この根本氏の熱量に負けてか、

今までのように書店ルートではなく学校直販のルートへと方向転換して、

出直してみようということになり、

1959年にもう一度やってみようと今までの『科学の教室』上級・中級版に加え、

『かがくのきょうしつ』初級版の3誌で再度出直ししていきます。

 

しかし、売れない日々は続き、苦悩の連続。

 

前と同じく毎月廃刊か存続か・・・

 

状況は何も好転していきませんでした。

 

この物語の主役中川浩登場!!

 

出版の世界では昔から月間雑誌『科学もの』は出版しても売れないと言われていました。

 

月刊雑誌で今も残っているのは『ニュートン』ぐらいで、

『科学朝日』や『科学読売』、『自然』なども発行を中止していましたし、

科学雑誌ブームというのが一時期訪れ、

講談社から出た『quark』や旺文社の『omni』、学研の『UTAN』などなど

独自の色を出し頑張っていたが科学雑誌ブームが去るとともに消えていきました。

 

 

そんな中、廃刊か存続かを最終決断するときが刻一刻と近づいてきました。

 

すると社長が何を思ったのか、

1度中川浩に任せてみよう!!ということになりました。

 

中川浩氏といえば学研のエリートで、

当時、学研の稼ぎ頭『学習シリーズ』の『三年の学習』や『四年の学習』の統括編集長を務めていました。

 

中川氏にとっては納得のいかない人事異動で、

窓際の部署への左遷とも思ってしまいました。

 

上司に聞いても納得いく説明を受けることもなく、

『社長の鶴の一声』

としか言いようがないほど・・・

 

仕方なく中川浩氏は科学誌編集部門へと異動しました。

 

 

※中川浩の人物像

日常的にはとても無口で、

自分の立場から偉ぶることもなく部下に対しても丁寧に話す。

しかし、『編集』ということになると一変して狂ったように激しさを表す。

 

 

鬼の中川が姿を現す。

 

中川氏は科学誌部門に異動した当日に『科学の教室』の3誌にさらっと目を通し、

仕事のバタバタが落ち着いてくる夕方を見計らい部署の全員を集めました。

 

部員たちはこれからの目標や編集方針を中川浩氏が話すのかと思いきや、

突然

これは雑誌ではない!!

 

と言い出しました。

 

当時『科学の教室』は学校での直販ということを意識するあまり、

文部省の指導要領に沿って教科書の補助のような資料という編集を行っていました。

 

中川氏が思い描く『科学の教室』とは、

子供たちが学校で使う教科書や資料的なものではなく、

子供たちが家に帰って楽しく読める雑誌だと主張します。

 

記事が同じでもその記事に相応しくわかりやすい言葉遣い、

子供のことを思い工夫された文章になっているか。

 

タイトルや導入部も子供たち読者が『面白そうだな』と興味を引き立てられる内容なのか?

 

など配慮が出来ているのかと激しく部員を問い詰めます。

 

部員は集められ、

終始激しい口調で中川氏に事細かに指摘されたことで、

何か『科学の教室』の編集していることをすべて否定されているようで不満が募ることになってしまいました。

 

中川改革その① 6誌体制に

 

『科学の教室』は初級版のターゲットは小学1年生2年生でしたが、

1年生と2年生ではこのころの子供の成長は著しく、

考える力や文字を読む力にもかなりの差が出てしまいます。

 

1年生と2年生のすべての子供たちに理解できるように編集するのには、

少し無理があるのではないかと考え、

『科学の教室』を今の3誌体制から学年別の6誌体制に変えようと中川氏が決断します。

 

おいおい!ちょっと待ってよ!!

部員たちはただでさえ売れずに困っている雑誌を2つに分けてしまったら、

1誌当たりの販売部数は減ってしまうんじゃないかと考え反対します。

 

さらに、

学研の顔ともいうべき『学習』の編集部からも反対されることになります。

 

『1年の学習』と『1年の科学』が同時に出版され、

店頭に並んだら『学習』の読者の子供たちが1部『科学』に流れてしまい、

『学習』の販売部数が減ってしまうのではないかと。

 

しかし、中川氏の考えは違い、

『学習』と『科学』とでは根本的に編集方針が違うことと、

『科学』はたくさんの『学習』を愛読している読者の子供たちの中で、

科学に興味を持つ子供に対して上乗せして売り上げられるということを訴えます。

 

強引ではありますが1962年の4月号から学年別に6誌体制へと変貌させていきました。

 

ただし、これだけの無理を通して中川氏が6誌体制に踏み切ったからには、

覚悟を決めないといけません。

 

ダメなら潔く学研から身を引こうと。

 

障壁その③ 6誌体制にしても売れない

 

6誌体制で再出発した『科学』へ編集部。

 

学年別に各年齢のニーズにや能力に合わせてきめ細やかに編集していきました。

 

編集者たちだけではなく、当時の科学に詳しい識者や学校の先生などの協力もあり、

評判は高くなっていきます。

 

次世代の担い手である子供たちに是非読んでもらいたい

 

という意見も多数貰うことが出来ました。

 

原案が出来上がると、

編集者たちは当時理科の教育に力を入れていた学校の先生に見てもらい、

各年齢の能力や理解度を越えてしまってはいないかなどと検討していきました。

 

6誌の各担当の編集者たちは必死に売り上げアップを目指していきます。

 

しかし、こんなものでは足りない!!

 

中川氏は原案会議で各誌への追求はどんどん激しくなっていきます。

 

取り上げたテーマやテーマの動機、

起承転結、写真や挿絵と細部までくまなくチェックし担当者を問い詰め、

担当者が返答できなかったりもたついていると原案はやり直しとなりました。

 

会議というより、ケンカ、怒鳴りあいといったほうが正しいかというくらい、

原案会議では毎回が修羅場のようになっていきます。

 

中川氏はそれだけの決意のもとに、

また各6誌の編集長以上にどうして売れないのかを悩んでいました。

 

何がダメなのか?どこが間違っているのか?

 

『学習』はこの時200万部を記録していてさらに売れ続けるぞという状態。

 

確かに『学習』は算数や国語、理科、社会それに習字や図工などまで全ての教科を網羅していましたが、

『科学』は理科だけで、わが子の学校での成績を上げたいと思う親にとっては、

『学習』の方が優先順位はうえで『科学』は趣味の一部だととらえたいるのかもしれません。

 

ここで”THE END”なのでしょうか?

 

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