学研【科学の教室】中川浩が大ヒットへと導いた苦労、障壁を乗り越えた物語

アンビリバボー

ここまでのおさらい

 

学研が科学雑誌を発刊する。

   ↓

しかし売れない。

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社名や編集方針を変えるが売れない。

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科学編集部門に当時学習の統括編集長中川浩氏を招へい。

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中川氏の改革その①6誌体制に変更するが売れない。

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いよいよ万策尽き廃刊か?

 

 

中川浩の子供時代を回想・ひらめき

 

中川氏は自分の子供の時どんなことをしたのか思い返してみます。

 

小学校3年生だったか4年生だったか、

歩いて1時間はかかる石神井川に行って食べるわけでもペットにするわけでもなく、

タナゴを瓶に取って持ち帰ったり、

原っぱでトンボやバッタを夢中で追いかけまわしたこと。

 

ファーブル昆虫記をよんで感心したことや、

今はできませんが、

理科の時間に先生がウサギに麻酔をかけ目の前で解剖して見せてくれたことなど・・・

 

思い返せば自然や実験で実際に目で見たものの面白さや不思議さ、

感動を伝えるのには本では限界があるのではないかと思い始めました。

 

中川改革その② 科学誌と実験用具などの一体化

 

科学誌だけでは子供たちに感動や不思議さが伝わらないと思い立った中川氏は、

簡単な実験装置や観察用具を付録として付けられないかと考えます。

 

当時、付録といえば紙製品を組み立てる程度のものしかなく、

紙製品以外の鉄や木でできたものを付録にすることなど考え付いたものはいませんでした。

 

しかし中川氏の考えを突破するには問題が2つ

 

 

① 定価の中でどの程度の付録が作れるのか、具体的にサンプルを作る。

② 読者に雑誌+付録をどうやって届けるか。

 

1962年7月だった当時、

1963年度の4月号からスタートするならば8月までには方針を決め、

9月には社長や社内各部署の”OK”を得なければなりませんでした。

 

30円の原価でどんな付録が出来る?

 

当時『科学の教室』は120円で販売されていました。

 

定価120円のものを80%で代理店に卸す、

人件費や流通費を差し引くと雑誌と付録にかけられる費用は70円。

 

雑誌を何とかやりくりして40円で仕上げたとして、

付録にかけられる費用はたった30円でした。

 

当時、付録として付けたかったのは、

拡大鏡や虫眼鏡、温度計や天秤、試験管、リトマス紙、豆電球などなど・・・

 

たくさん思いつきましたが、

どう考えても30円で付録としては付けられるものはありませんでした。

 

そもそも30円で付録として付けられるものなんてあるんだろうか???

 

中川氏は現実をみて、絶望感を味わいました。

 

そんなある日、

中川氏が自宅の庭でぼんやりと子供たちが遊んでいるのを眺めていると、

大騒ぎをしています。

 

見てみると子供たちが小さな虫メガネを片手にどっちが早く紙に火が付くかと競争していました。

 

中川は血相をかけて子供の元へ行き、

チャチな虫眼鏡を取り上げどこで買ったのか案内しろと子供に話しました。

 

子供たちが連れてきてくれたのは駄菓子屋さん。

 

そこで中川氏は水鉄砲やコマ、鏡などを買いまくりました。

 

中川氏にとって駄菓子屋で売られている1個10円程度のおもちゃは衝撃でした。

 

その日から中川氏は社内にほとんどいることもなく、

近所の駄菓子の問屋街を歩き回りました。

 

毎日毎日2時間から3時間は歩き回っていたでしょうか?

 

デスクワークばかりやっていた中川氏は足が棒のようになる日々。

 

しかし、毎日通い詰めているうちに、

店主とも顔なじみになり、品物を下ろしている業者も少しずつ分かってきました。

 

メーカーや仕入れ業者とも仲良くなっていくにつれ、

扱っている商品がどんなもので原価はどれくらいかも大体わかってくるようになります。

 

中川氏は自分の素性を明かすと、

付録に何を求めているかを理解してくれ、

実現できる可能性なんかも話してくれるようになっていきました。

 

それだけではなく、

知り合った人たちが大勢の内職する人たちを束ね、

たくさんのものを組み立てたり、細かい作業を手掛けていた。

 

もしかしたらこの人たちの力を借りれば試験管やリトマス紙など、

付録につけたかったもののいくつかはできるんじゃないかと思えてきました。

 

幾度となく足を運び、もっと深くまで業者の人たちと話を進めていくうち、

中川氏は頭の中で実現の可能性から確信へと変わっていくのです。

 

障壁④ どうやって流通・運搬する?

 

付録を作るということは実現できそうでしたが、

もう1つ最大の難関が待っていました。

 

それは、

雑誌+付録をどうやって運び、届けるか?

 

当時、特運という制度があり、

国鉄(今のJR)が文化の向上や役立つものを損をしてでも優先して運ぶ制度のことで、

学研も『学習』を含め雑誌などを特運で運んでもらっていた。

 

しかし、特運で運んでもらうには制約がとても厳しく、

紙製品以外のものをほとんど付けないというものでした。

 

紙製品以外での付録を提供することを前提に考えていたので、

とてもじゃないけど国鉄は許してくれないでしょう。

 

国鉄といえば当時は役所同然で、

特運の権利を得るのも大変だったし、1度機嫌を損ねでもしたら、

二度と許可なんてもらえないということはわかっていました。

 

特運を外されてしまえば学研もたくさんの雑誌を運んでもらっているので、

どうしようもなく、慎重にならざるを得ない状況です。

 

また、今の時代とは違い、

長距離トラック輸送も始まったばかりだったので山奥まで届けてくれるようなところなんてありませんでしたし、

送料も高かったでしょう。

 

なんとか国鉄以外で安く、付録を付けても運んでくれるところはないかと考えますが、

なかなか前に進みません。

 

ここで救世主登場!!

 

当時学研の発送関連部門の役員だった小林氏。

 

中川氏は小林氏に付録を付けた教材の話をして、

国鉄に代わる他の輸送手段がないかを尋ねてみました。

 

また、輸送の問題さえ解決できれば学研の新たな事業展開ができることもできるだけわかりやすく伝えます。

 

小林氏は

2、3週間時間をください。

調べてご返事しましょう。

大きな課題であるだけに、研究のし甲斐があります。

 

と中川氏に言ったのでした。

 

中川改革その③ 特運外しを強行

 

そして、約束の時間が過ぎ、

小林氏は決断します。

 

そもそも国鉄の特運を外して国鉄に機嫌を損ねられるんだろか?

 

赤字を覚悟で国鉄は運んでいるものをやめ、

権利を返上したところで機嫌を損ねることなんてないだろう。

 

そう思い立った小林氏は、

漠然とではありましたがこれからトラックでの流通の時代がやってくると考えました。

 

トラック便の導入を前提とした輸送システムを構築することを決断します。

 

これは当時流通面での大革命でした。

 

障壁⑤ 最後にして最大の難関2つ

 

小林氏からは『雑誌+教材』というプランが社長会議で決定すれば、

輸送の問題は何とか間に合わせると言われました。

 

料金も国鉄よりもトラックで運んだ方が安くつくということもわかりました。

 

そして中川氏はいよいよ行動を起こします。

 

学研のすべての出版物の制作管理をしている川本常務を説得しに行きました。

 

これが思っていたより大きな障壁でした。

 

管理部門といえば何かミスが起これば厳しく責任を問われる、

うまく運んで当たり前という業務。

 

そのため考え方がどうしても保守的になり、

思い切った行動はできるだけしたくないと考えていました。

 

誰も経験したことのない紙製品以外の付録を付けるということで川本常務の説得は難航した。

 

中川氏は川本常務に雑誌+教材の内容や意図するところなどをわかりやすく説明、

川本常務は中川氏が話している間は一言も話さず、

聞き終わると

うちにとってはこれは初めて手掛ける仕事ばかりだ。

材料の仕入れから加工やセットまで、

新たな部署を作り当てる人を用意しなければならん。

安心してお付き合いできる協力先も見つけなくてはならない。

相手先だって新たな取引をはじめるわけだ。

1,2回手伝っておしまいでは話には乗ってこないだろう。

ずっと長く続くといえば新たな投資をしてでも受けてくれるだろう。

そのためにわが社はこれだけの長期プランがあると見せる必要がある。

2,3か月のプランでは話にならん。

少なくとも全学年3年分の付録プランを持ってきてくれ。

 

とさらっと話し、終わりました。

 

川本常務の話はごもっともでしたが、

会議までにはあと1か月、

6学年の12か月分×3で216種類の付録を考えなければなりません。

 

ここで中川氏は編集部員にすべてを話します。

 

編集部員全員が本気でやってくれなければ間に合わないと、

今までの経過をすべて話していきます。

 

 

・全員の努力で中身が濃く、そして読みやすいきょうみをもってもらえるものになったが、

部数は伸びていないこと。

・理科や化学は実際目で見て観察や実験することで感動を与えられること。

・おもちゃや駄菓子問屋を歩き回って事で工夫すれば何とか器具を付録にすることは可能なこと。

・輸送面は国鉄の特運を外してもトラック便で安くつくこと。

・3年分の付録プランを作らなければいけないこと。

 

話終えたころは夜11時、

出席した編集担当たちは質問もせずに黙って聞いていました。

 

この1か月後、

6学年3年分の付録が書いたプランがほぼ出来上がりました。

 

その中には、

電磁モーターや顕微鏡、カメラなど子供にとっては興味深いものばかり。

 

でもこの時は30円でこれらのものが作れるかは2の次でした。

 

ついに突破!!社長の決裁が!!

 

中川氏は社長の前で雑誌+教材の付録付きを説明します。

 

この当時、社長の発言は重く、

ダメといわれたらその言葉を覆すのは無理でした。

 

中川氏の説明が終わり社長が

面白そうじゃないか、やってみるか

 

この瞬間中川氏は張りつめていたものが吹っ飛び、

全身から力が抜けていくのがわかったといいます。

 

これで新しい『科学』の幕開けとなります。

 

 

しかし問題はまだまだ山積み

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